戦争対立国間の対話について考えた 原民喜「夏の花」
こんにちは。マシマシでっす。
原民喜「夏の花」を読みました。
原子爆弾によって、人間が(身体的に)どう醜く変化するか、広島の建物の崩壊、人間が安定して生活するためのシステムが一瞬にして崩れ去るとどんな混乱が生まれるかが、とても具体的に記された小説です。
戦争被害の記録として歴史に残すべき資料であることは、誰が見ても明らかだと思います。
私がこの小説で注目したのは、アメリカが不在である点です。最初から最後まで舞台は広島で変わりません。爆撃機や原子爆弾を、人為的なものとして描かず、あたかも災害のように住人に降りかかるものとして描いています。
ですので、この被害をもたらしたアメリカへの非難、批判は皆無です。
私は、この姿勢が、戦争被害について関係国間で対話する際に非常に大切だと感じました。
普段、私は戦争の描写を聞くと、善悪を頭に入れたうえで聞いてしまいます。そこで、いざ戦争について話そうとするとあの国が約束を破った、あの国が悪い、という非難合戦に終始してしまいます。
しかし、この「夏の花」の描写を読んで感じるのは、痛々しさと忌避感、やるせなさなど、「もうこんなの見たくない」という一点に集約される感情です。
こういった、戦争被害そのものへの忌避で共通言語が作れれば、戦争についての対話がもう少しスムーズに進むはずだよな、とどっかの国々を見て、思うばかりです。