ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

ナンパの計画と書評について書き込んでいくブログです。時々時事ネタ入れます。よろしくお願いします

尊厳死法制化と女子中学生の自殺ニュースから「死ぬ権利」について考えてみた

自らの意思で死を選ぶことについてのニュースを最近よく目にします。

 

news.yahoo.co.jp

 

www.huffingtonpost.jp

 

そのニュースたちを目にし、前々から疑問に思っていたことを改めて思いました。

 

自殺とは、必ずしもいけないことなのか

 

そう思った経緯を説明します。

 

さっき1つ目のニュースでは、尊厳死法制化の是非を扱っています。

まず、尊厳死法制化とはなんぞや。上記の記事では、2012年に法案が提出されたと書いていました。その中身はというと

内容は、患者が「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近である」状況において、医師が患者の意思に基づいて延命治療を差し控えたり、中止したりした場合、「民事上、刑事上及び行政上の責任を問われない」という医師の免責を規定するもの

だそうです。

あくまで、医師側の免責を規定する、という書き方にしてあるんですね。記事でも書いてましたが、呼吸器外した件で、医師が殺人罪に問われるなど問題になったから、医師を守ること第一の書き方になっているんでしょう。

この医師側の視点に立った法律、これ、見方を患者側からに変えたら、末期患者が望むなら患者は死を選んでもいいよ、と謳っている法律だ、という解釈は飛躍しすぎでしょうか?私は、患者が自分の死を選べる範囲を前より広げられる法律だと解釈しました。

だって、今まではどんな形であれ、個人が自分の意思で死を選ぶことを国は許していなかった。しかし、末期患者が「もう生きたくない」と意思表示をすれば、それを止めないことは罪ではない、と言ってるんですよね。

じゃあそれは、死を選ぶことを認めているものですよね。

 

んで、思ったんですよ。

 

じゃあ普通の自殺も認めようよ。

 

重病なら自分で死を選んでよくて、精神的な苦しみを患っている人に対し死を認めないのはなぜでしょう。

病気は身体的苦しみを伴うからでしょうか。再起の可能性が低いからでしょうか。

身体的苦しみを精神的苦しみより大きなものとして捉える道理は私にはピンとこない。だってどっちも苦しいという点では一緒だし、苦しみの大きさでどっちが上下言えるもんでもないでしょう。

では、再起の可能性はどうか。病気の方が、再起可能不可能がはっきりわかる。それに異論はない。でも、精神的な再起可能不可能だってある否定にはならない。今まで彼彼女がアイデンティティとしてきたものを奪われ、そして、そこからアイデンティティの復活が大変困難に思われる状況では、果たして再起は可能だと言えるだろうか。例えば・・・

今まで他者よりも社会的成功にアイデンティティを置いてきた人が、50でホームレスに転落し、1億の借金を背負い、家族全員から逃げられたとき

自分の美に何よりの自負を置いていた女性が、35で自分の衰えに焦り、美容手術に失敗し、世にもおぞましい顔に変貌したとき

彼彼女のアイデンティティの復帰は大変難しいと客観的に見ていても思う。「いやいやまだ頑張れるよ」「アイデンティティを変えて生きればいいじゃない」そう思う人もいるかもしればい。いや、彼彼女はもう十分頑張ったでしょう。アイデンティティになるということは、今まで、精一杯の努力と時間を積み上げてきたのだろう。その努力と時間は、彼彼女なりの精一杯だったのだ。そして敗北した。もう敗者復活戦を勝ち抜いていく気力はもうない、と言われたら言葉を重ねられるだろうか。

融通が利く人、そうじゃない人。初志貫徹をする人、そうじゃない人。融通無碍に生きられる人、そうじゃない人。同じように、アイデンティティを変えやすい人と変えにくい人が、この世にはいると思う。アイデンティティを変えろ、と言われて、どうにも反発してしまう人。それだけはできない、なんで自分にそんなことを言うんだ、わからずや。そう言い返されるのがオチではないだろうか。

 

だから、末期患者であろうとなかろうと、途方もない苦しみを抱えた人はいるし、再起が限りなく難しい人はいると、私は思います。

 

ここで勘違いしてほしくないのは、私は自殺推進者ではありません。私は生を尊いと思っている人間です。上記のような状況にあっても、生を選ぶ人間を私はすごいと思うし、尊敬するし、応援したいです。もし這い上がる選択を選ぶなら、その気力、根性にすさまじいものを感じるし、自分のアイデンティティを変えていこうとするなら、その勇気と柔軟さにはただただ感服します。

ただ、私はただ、自殺をした人を貶めてほしくないだけです。そして、その選択を愚かだとか、若い者の過ち、とかそういう文脈で語ってほしくありません。ここまでこうやって文章を重ねてきたのは、自殺した人の苦しみの深さへの寄り添いをもっと持とうよ、と言いたいがためです。

 

ただ、死を選ぶことの方が絶対的に自分にとって幸福だ、という考えを持ってしまった人に対し、私はその人に対してなんと声をかけていいか分かりません。生きてほしい、と伝えるのが彼にとっては私のエゴにしか映らない場合もあるでしょう。そのうち報われる日が来る、という言葉に彼は詐欺だ、と感じるかもしれません。

それを思うと、私は声がかけられなくなります。生に絶望してしまった人に対して、生に希望を持っている人の言葉はあまりに無意味だと思ってしまうからです。

 

かけられる言葉は「今までお疲れ様」くらいではないでしょうか。

 

 

さて、ここからは余談。

 

いやでも、自殺を選んだ人も、もしかしたら、死のギリギリ手前で、「やっぱり生きたい」と思ったかもしれません。

例えば、先の彼彼女が自分の生に意味がないと思い、首をつる決意をする。

そして、実行する。1分2分経ち、絶望を吹き飛ばすような苦しみが襲いだす。

頭が血液で破裂しそう。首が胴から吹っ飛びそう。この苦しみから逃れたい、逃れたい、生きたい、生きたい生きたいやり直したいなんでもやるから元に戻して戻せ畜生早く直せ直せ直せ直せ直せ

 

その思いもむなしく呼吸は止まり、彼彼女は死ぬ。

 

でも、その生への希求は、紛れもなく、自分が死への一歩を踏み出したからこそ得られたもの。

その人は、その一歩を踏み出すことなく、死にきれず、生の実感を得られず、ただなんでもない日々を送ったかもしれません。そのなんでもない日々がその人にとっては途方もない苦痛かもしれません。

だから、私は思います、その死への一歩は必要な行為だった。その一歩が、自らの意志では不可逆なものだったとしても。

 

 

偉そうに、おれは何を言っているんだろう。自殺したいと思ったこともないくせに。