ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

ナンパの計画と書評について書き込んでいくブログです。時々時事ネタ入れます。よろしくお願いします

高石宏輔「あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知」 コミュ障はうまく話せないからコミュ障なのではない。自分を顧みることを知らないからコミュ障なのだ

「自分の感情や感覚を自覚しながら、自分で発想して、試して、その成功、失敗に一喜一憂する中で、自分で考えるための感覚は育まれていく。そのことを実感したときに人は他人にアドバイスを求めずとも、自分で進めるようになっていく」

 

高石宏輔「あなたは、なぜ、つながれないのか」を読んだ。

 

<本の内容>

パターン化された会話を壊す方法はないものだろうか。

しなければいけないことを身につけるのではない。してはいけないのに、知らないうちにしていることをやめるだけでいい。

自分は環境から影響を受け、環境に影響を与えていることを知り、自分自身の振る舞いを見つめて変えることで、自分も周りも変わっていく。

自分の考えの通りになってほしいと望むことが自分を緊張させ、相手との関係を切ってしまうのだ。

他人と自分を混同して起こる怒りや共感を、自分から引き離して見ることができたとき、自分がどのようなことを感じ、どのようなことを思い込んでいるかということに気づく。

自分の感情や感覚を自覚しながら、自分で発想して、試して、その成功、失敗に一喜一憂する中で、自分で考えるための感覚は育まれていく。そのことを実感したときに人は他人にアドバイスを求めずとも、自分で進めるようになっていく。

 

 

私はこの本を読んでいる前後、ある人と会話をしていた。

穏やかに会話は進んでいた。彼が主に話し手で、僕は主に聞き側としてそこにいた。彼は、僕より10歳ほど年上で人生に対して後ろ向きなスタンスという点で共感を感じていた。その日も、二人で人生ずっと寝ていればらいいのに、でも、これから30年ずっと寝てる人生もそれはそれで退屈だよね、という話をしていた。

「でも、自分の能力を試したいって欲求もあるんですよね」

と僕は口に出した。先ほど彼が言った、ずっと寝ていたいとか、そういった願いとは対極の願いを持っている、そんな自分のどうしようもなさを彼に伝え、よしんば笑ってほしいとなんとなく思っていた。

しかし、彼はそのようには反応しなかった。心なしか、語調を強め、そして、彼は社会に自分の能力を認めさせるたにの方法をご丁寧にも具体的に挙げていってくれた。起業家になる、学者としてなんらかの賞をとる、凄腕のエンジニアになる、ライターになる…

想像でしかないが、僕のような社会にろくに出たこともない、いつもハウスでぶらぶらしているようなやつが何を生意気な、という気持ちもあったのかもしれない。というか、僕は彼がそのような苛立ちの感情を持ったように思えた。

僕は彼からその、能力を社会に認めさせるための方法の説教を、先の彼の感情の吐露と比べ聞くボルテージが下がっていた。そして、ボルテージ低下気味の私が、先ほどと同じような熱心さで聞いていると思い込み話し続ける(と思われる)彼に、胸の中で怒りが渦巻き始めている自分を感じた。

彼は、社会から能力を必要とされる人間になるためには、血反吐を吐くような努力が必要だと言った。例えば、ライターなるのは、ブログ程度の文章を書くのとは比較にならない。一冊の本を読むために、百冊の本を読むことが必要だ、逆に言えばとりあえず100冊読みさえばいいんだけど。

そう口に出した彼に対し、私は彼に怒りの矛を向けていいと正当化できる自分を手にした。

「その100冊は思考の上に絞られた100冊である必要がある。なぜなら、書籍とは思考の上澄みを切り取ったものにすぎず、その下には体系だった強靭な思考が必要だからだ。そんな思考を育てるためにはある程度一貫したテーマの100冊を選ぶ必要がある」

そんな意味のことを彼に対し伝えた。論理の正当性でもって、彼をとっちめてやる。そんな感情が私にはあった。彼はそこで、100冊を一つの意思のもとに選び切ることはできない、偶然的な要素に頼る必要もある、といった意味の反論をしてきて、私も、まあ、そうですね、と答えた。

彼は目の前のパソコンに向かいキーボードを打ち始めた。私は「あ、もうこれ以上今日会話することはないだろうな」と思ったし、それはあたりだった。

 

 

私はこれまで、自分の感じた違和感を相手に伝えないと、自分の中の消化不良で自分が動けなくなってしまうことが何度もあった。

役者をしているときに、作品への些細な違和感を、上級生の演出家に委縮して伝えられず、その違和感で演技をうまくできなかったこと

中学時代、パしりにされたが、相手が怖くて嫌とは言えず、しかし自分のプライド的にパシリにされている自分を認めれられず卑屈になっていったこと

その経験から、自分が感じた違和感をそのままにせず相手にその場で伝えることは正しいのだと思い込んでいた。

しかし、この本を読んで、もっと深めてみたいと感じた。自分が感じた違和感を伝えなければ自分が消化不良で動けなくなってしまうからと言って、相手にとりあえずぶつければいい、というのは明らかに飛躍がある。

 相手にぶつけるより前に自分の違和感の原因を探る方が先なのではないか。そして、違和感をぶつける姿勢は、少なからず相手を攻撃しようとする意志が籠っている。相手への攻撃の前にはしばし躊躇があっていいはずだし、自分が不安定になるのが嫌だから相手を攻撃する、という理屈は正当性を得られないように思えてくる。

もう少し、自らの中での整理の余地がある気がする。し、改めて先の文章を読み返すと自分の早とちりの部分が多分に含まれている気がする。

 

筒井功「忘れられた日本の村」 限界集落の中の遺産に目を向ける

「この小さな山間の天地にも一三〇〇年を超す歴史があり、その盛衰にはなかなか激しいものがある。どんなにささやかに見えても、これこそ歴史と呼ぶべきものではないだろうか」

継承者がなく途絶えた狂言の曲目の舞が伝統として伝わる村や、裏庭から水晶が掘り出せる家がある村など、他にはない個性、伝統を持った村を7つピックアップし紹介している。その伝統たちのルーツ、今に至るまでの経緯を著者自身の推察を加えながら紹介している一冊。

著者が、限られた資料を使い、パズルを組み立てるように、過去にあった姿を想像する過程が面白い。マンガの考察本を読んでいるようなワクワク感がある。著者自身も想像力をフルに稼働していることを楽しんでいるようで、一緒に楽しんでいる感覚がある。

 

また、「忘れられた日本の村」というタイトルを聞くと、連想する「忘れられた日本人」。著者自身も意識していたようで、タイトルはここからとったらしい。しかし、本自体の趣旨も読んでいるときの感覚もスタイルも大きく違う。

個人史に根差したのが「忘れられた日本人」である一方、村の歴史に根差したもの「忘れられた日本の村」。個人史は、一人の証言をそのまま提示するだけでいい。その言葉を聞き、その人間の背後にあるもの、当時の感動を私たちは想像する余地がある。

しかし、この本では、村の歴史を提示している。村の歴史を形創るためには、情報を編集し組み立てる作業を必要とする。そのためか、「忘れられた日本人」に比べ、既にパッケージング化された講義を聞いている感覚を受ける。

 

そのため、2冊の本が持つメッセージも大分性格が違う。

「忘れられた日本人」に載っているのは、「昭和、明治の人たちのちょっと面白い話」であり、消えていった風土を想像し、自分なりに組み立てることができる。その生活を魅力的に思うかどうかも私たちにゆだねられている。

この「忘れられた日本の村」は、最初に「魅力ある村の個性」と打ち出しているため、読みやすくはある。どの部分が、どう魅力的かを追えばいいだけだから。しかし、それが今の私たちに必要か、という判断を著者は私たちに求めてはいない気がする。

斎藤孝「斎藤孝の速読塾」 話上手になるための速読術

斎藤孝の速読塾」を読んだ。

 

この本は、速読術の説明の前に、読書の目的をしっかり解説することから始めている。

まず、読書は

 

他者理解(自分の主義主張だけにこだわることなく、他者の意見を受け入れようとすること)のためにある

そのためには、多くの知見を得て、自分の理解の範囲を広げることが必要

そのために、より多くの本を読み、自分の考えとして蓄えることが必要

そのために、素早く、内容をいつでも自由に引き出せる読み方を習得する必要がある

 

という流れで、速読の必要性を説いている。

その次に、速読とは、インプットとアウトプットからなるものと定義し

①全体のうち2割の重要部分を汲み取り、それ以外は読み飛ばすこと(インプット)

②その重要部分を要約し、自分の価値観を加えて発信すること(アウトプット)

としている。

そして、①のインプットの際には

●著者の立場になって、寛容な視点で読むこと

●客観的に重要と思われる部分と自分の価値観とヒットする部分をメモすること

大きく言うとこの二点を行う。

以上一連が斎藤孝の言う、速読術である。

 

私はビジネス系の速読術にアレルギーを持っている。なぜかというと、効率、成果を重視し、とりあえず要約してればよし。という考え方が大嫌いで、ビジネス系の速読術はこれをとにかく推奨している、という先入観を強く持っているからだ。(もしかしたら不当かもしれない。いや、たぶん不当なんだろうな…。とりあえずビジネスライクが嫌いなんです)

それで、斎藤さんはどうかというと、ビジネスライクの速読術の合間合間に小説のような、全体の文章の雰囲気を楽しむ感覚を肯定してくれている。必ずしも自分が定義した読書を全てとせず、全体を読むからこそ感じれる読書の楽しみがあることを含ませてくれる。

だから、好きになったし、速読術への偏見も少し溶けた。

 

また、この本の構成として

●重要部分は太フォントがほどこされている

●速読の目的を最初にしっかり定義している

このおかげで、重要な説明と枝葉の部分の判別をしやすい。この本を速読しようとする人にも初心者用の書籍として使える仕様にもなっている(笑)

円城塔「プロローグ」 創作に当たってのゴミに光を

 創作は、その活動の時点で多くの「ゴミ」が重なるものだと私は思う。私が昔行っていた演劇であれば、何度も稽古を繰り返し、台本が変わり、最終的にお客さんに発表された作品まで何度も案を作っては捨てを繰り返した。このブログであれば、何度も書いては修正を繰り返している。今だって、「くりかしえ」と打ち間違えて訂正を行った。

 このように、創作中は何度も訂正、改善のため多くの思考錯誤が積み上げられ、「誤」とみなされたものは容赦なく「ゴミ」と化していく。いやはや創作に限らない。日常の様々な活動において私たちは試行錯誤を繰り返し、膨大な「ゴミ」となった「未完成」の上に完成品ができる。

 

 僕は、この「未完成」が日の目を見ないことが、やるせない。そして、その「未完成」に光を当ててくれたのがこの作品だと思う。

 

「わたしにとって理想の書物の形はだから一言で「ソフトウェア」ということになる」この一文が私は大好きだ。

 「創作の流動化」これを円城さんはこの作品で目指していると感じる。通常の創作物は、小説、映画、絵画ーどれをとっても完成したものが私たちに届く。完成したものを咀嚼し、製作者の意図によりそった解釈を目指す。この作品がどんな変遷をたどり、現在の形になったかはあくまで想像するしかない。

 しかし、その創作中の紆余曲折が、作品そのものより遥かにダイナミズムを孕んでいることが時々ある。新たに世界観が組み込まれていく感動。昨日まで確かにあった設定が突然消え去る暴力性。更新される世界の中で上塗りされる意味。こういったものが可視化される、「創作それ自体を描いた創作物」がこの作品だと、私は思う(と、ここまで偉そうに書きながら、私はまだ3分の1しか読んでいない…)。

 冒頭の「ソフトウェア」こそが、常に創作の渦中にある創作物なのだ。「ソフトウェア」は、完成しない。作り上げられたシステムの上からまた更にシステムを付与し、よりよいシステムに作り替えていく。そのダイナミックさに理想の書物を見た、円城さんの感性に平伏である…。

 

 また、「ソフトウェアが理想の書物」は、まさに未来を表しているかもしれない。演劇界の、戯曲と演劇構造をいかに分けるか、という問題が、この「ソフトウェア→未来の書物」についてヒントをくれているように思う。

 2012年岸田國士戯曲賞岸田國士戯曲賞とは、演劇界の芥川賞と思っていただければよい)を受賞した、藤田貴大「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界」という作品がある。この作品は、「リフ」という、劇中で同じシーンを何度も繰り返し、役者のテンションをシーンごとに上昇させていく手法が評価された。

 しかし、「手法」への評価は戯曲ではなく、演出への評価とみなす選者も多く、そういった方々からはこの戯曲は支持されなかった。私はこの「リフ」という手法こそが、この作品の構造を作っている、つまりソフトウェアに当たると考えている。手法、構造が作品の重要な要素とみなされ、権威づけされていくのではないか、と、この「リフ」への評価と、「プロローグ」を読んでいると、思えてくる。