ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

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「真田丸」を見て改めて思う―堺雅人ってカッコよくないすか?

 私は今、NHK大河ドラマ真田丸」が大好きだ。好きが高じ、派生番組にもチャンネルを合わせる。先日、NHKの朝のワイドショー「あさイチ」の「真田丸」特集で主演の堺雅人さんがゲストに呼ばれている回を見た。

 その時に「男が目指す男」について思ったことを書きたい。

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(「リーガルハイ」出演時の堺さんを書いた。誰が何と言おうが、これは古御門)

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 従来、男が目指す男のモデルは、「大きさ」と密接に結びついていたと思う。マンガ「刃牙」シリーズの範馬勇次郎のように、大きな力を有していること。あるいは、ホリエモンのように大きな権力、資産を有していること。あるいはオタキング岡田斗司夫のように莫大な知識を有していること。

 

 なぜ、男が「大きさ」に向かうのか。それは、男には世界に自分の思い通りにしたい、という欲求が本能的に備わっているからだろ思う。「自分の主張を通したい」「自分の希望を通したい」その実現のためにより大きな「何か」を有している必要がある。そのために、男は巨大な何かに向かう。自分を誇示する為に。

 

 私はそのエゴやナルティシズムが嫌いだ。とても嫌いだ。他人の中のそれを見た時、私は嫌悪感を覚えるし、自分の中のそれを自覚したとき、恥ずかしさを覚える。そのエゴやナルティシズムは自分が確固たる何者かだと世間に認めてほしい、という感情から来ていると思う。その裏にあるのは、自分が何者でもない、という劣等感だ。(書いていて思ったのだが、これはブーメランでそのままこの文章を書いている私にも当てはまる。ああ、やっぱりうっとおしい)私が他の人の男としての誇示を見た時、嫌悪を抱くのは、自分の中の劣等感が刺激されるからだと思う。

 

 堺雅人は、そういったエゴをとことんそぎ落としているように見えた。

 彼が演技の際に心掛けていることは、共演者のやりたいことを立てることだという。相手がやりたいようにできる環境を整えることで、より気持ちよく演技できるようにすること。彼がそのような姿勢を貫くのはなぜか。

 「人は知らず知らず自分本位に演技をしてしまうものだと思う。だから、限りなく自分のやりたいことを削ぐくらいがちょうどよいのだ」(このような意味のことを堺雅人は言っていたと思う)彼は自分の演技を褒められても、誇示しない。そして、謙遜を通じて、周りから持ち上げられようともしない。ただ、自分のエゴをできるだけ「小さく」することを考えているように見える。

 この慎み深さ、思慮の深さに私は魅力を感じた。

 

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(「真田丸」の堺さんを書こうとした。途中であきらめた)

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 私は、男たちがより「大きな」存在になろうと肩肘を張るのがうっとおしいのだ。以前、居酒屋の客引きのアルバイトをしている際、他社の客引きと揉めたことがあった。意図せず相手の交渉の邪魔をしてしまったのだ。客引きをやる人はヤンキー上りが多い。彼らの揉めでは、相手の要求をのむことは相手への屈服を意味する。それは、屈辱なのだ。だから、(実利的な理由もあるが)メンツのため、自分に非があっても、少しでも相手の要求をそごうとする。

 私は、そんなメンツの張り合いが馬鹿らしいと思っていた。そんなことを思っていながら、いざ自分が揉めに巻き込まれると、相手の言うことを屈辱と思ってしまい、素直に受け入れられない。そんなヤンキー心が、自分も含め、うっとうしい。

 

 だからこそ、堺雅人のたたずまいを男のカッコよさと認められれば、男の無意味な意地の張り合いが消えるのではないか、と思った。そして、他者を立てることも、男の一つの生き方と認められたなら、自殺者が減りそうだと思った。だって、「大きな」存在でありたい自分と実際はそうじゃない自分のギャップが自殺の要因の一つだと思うから。そして、専業主夫など、男の生き方の選択肢が増える。

 そうなれば、今より生きやすくなる男が一定数いると思う。