ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

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夏目漱石「こころ」を超える価値観の提示 中村文則「悪意の手記」

 こんにちは。マシマシでっす。

 突然ですが、僕は、西加奈子さんのファンです。彼女の作品の、ラストに溜まったストレスをエンジンに突き進んでいく疾走感、爽快が好きなんです。その彼女が、中村文則さんの「教団X」をむちゃくちゃ評価してたので、気になっていたんですよ。今までの文学の中で、ジョンレノンの「イマジン」という言葉以上のものはなかった。だけど、「イマジン」を超える言葉が「教団X」の中で発明された、と西さんが言ってたんですよ。

 

 その言葉から、中村文則さんの小説が気になっていたんですよね。それで、今回が2作目。でも、この1作目は結構ぱぱっと読んじゃったので、実質1作目のつもりでいます。

 すいません、前置き長いんですけど、もう少し続けますね。

 中村さんがどんな人なんだろう、と思って読んでいたんですが、文庫版のあとがきで、すごく人間性を推察させる一説があったので紹介します。

 

なお、この作品で取り扱った病はある実際の病をモデルにしていますが、文庫化にあたり、病名等を架空のものにしています。そうであるので、文学作品として、この病はあくまでもフィクションです。しかしながら、今後このような加筆はしないつもりでいます。この一例のみということで、ご容赦ください。

 

 たぶん、今回の病名の加筆は不本意だったのかな、と思いました。文学に対し、不誠実と感じているのか、病名を変えることは逆にその病気の患者への侮辱と感じたのか。ただ、上からの圧力なのかなんのなか知りませんが、意思に反して今回は病名を変えざるを得なかった。そのことを中村さんは、すごく悔しく思っているのだとこの言葉から感じました。

 すごく、自分で考えて選んだことを誇りに思っているのだとおもいました。それが、かっこいいなあ、と思ったので、こちらに書きました。さて、ネタバレ全開で感想行きます。

 

 いつものように、僕があらすじ書いていこうと思っていたのですが、文庫版の裏表紙にあるあらすじで事足りそうだと思ったので、転載します。

死に至る病に冒されたものの、奇跡的に一命を取り留めた男。生きる意味を見い出せず全ての生を憎悪し、その悪意に飲み込まれ、ついに親友を殺害してしまう。だが、人殺しでありながらそれを苦悩しない人間の屑として生きることを決意する―。人はなぜ人を殺してはいけないのか。罪を犯した人間に再生は許されるのか。

病に冒された「僕」の手記、という形式で小説は進みます。「僕」は、人殺しでありながらそれを苦悩しない人間の屑として生きることを決意する、とありますが、屑になり切れないまま、なりきれない自分にも苦しんでいます。

 また、ここには書かれていませんが、自分が殺してしまった親友の「K」の母親も、重要な役割を担っています。彼女は、周りの人間でただ一人、「K」の死亡が「僕」の殺人によるものだと気づいており、「僕」の殺人を目論むのです。リツ子というキャラクターも重要です。彼女は、過去に息子を殺されており、Kの母親と同じく、殺害者を殺そうと目論んでいるからです。「僕」は、リツ子に手を貸し、犯人が釈放されると身元を突き止め、行動を捕捉していきます。

 

 見せ場は、終盤、一気に彼に救いが訪れるところです。彼を、ここまで苦しめる原因であった良心の呵責が、一気に祝福に転じます。最後に彼は、

 リツ子から、生きてほしいと願われます。

 母親から、自分が殺した親友Kの母親が死んだと知らされます。

この二つで、彼は立っていられないほどの感情の揺さぶりに会います。

 「僕」は、リツ子にKの母親を投影していたのだと思います。リツ子もKの母親も、同じく息子を殺され、殺した犯人を殺そうとしているからです。そのリツ子から生きてほしいと願われることで、Kの母親から「僕」は生を肯定されたかのように感じたんだと思います。

 その上にKの母親の死が重なります。これは、「僕」にとって、様々なものの喪失が含まれるのだと思います。死の機会、生の資格の確認など…。Kの母親が自分が生き続けることをどう思うか分からない。しかし、そのわからなさがもたらす苦しみも含めて生きなければいけない、そう「僕」は感じたのだと思います。

 この一連が、彼に残された良心がしっかりと存在意義を与えられ、彼を生に導いていった、彼の生を祝福したと私は感じました。

 

 

 夏目漱石の「こころ」との関係が、色々なレビューで散見されます。親友の表記が「K」であることや、主人公が贖罪の意識を持っていること、手記形式の表記であること。僕自身も、この「悪意の手記」という小説はすごく「こころ」と関係の深い小説に感じました。

 罪を抱えていきることの恥を描いているのが、「こころ」であると感じました。それに対して、「悪意の手記」は罪を抱えて生きることの肯定を描こうとしているのだと思います。

 中村さんなりの、「こころ」へのアンサーなのではないでしょうか。夏目漱石当時であれば、恥を帳消しにするため、死という逃げ道を選べた。逆に言えば、恥を抱えて生きる、という選択肢がなかった。しかし、現代は、死ぬことが怖くなってしまった。死すらも許されない中で、どうやって生きることを肯定するか。それに中村さんは挑戦し、必死に喰いついていった、その静かな熱に僕はすごく大きなものを感じたのだと思います。