ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

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芥川龍之介「疑惑」 過去からの問いが、「ゆとりですが、なにか」で一つの答えを提示できたのでは?

こんにちは。マシマシでっす。

芥川龍之介「疑惑」読みました。いつものようにネタバレ全開で、感想言っていきます。

 

 

<あらすじ>

10年前、実践倫理学の講義を依頼された私のもとに、左手の指が一本掛けた40くらいの中村玄道という男が現れた。彼は、善悪の判断を私にしてほしいとお願いし、20年くらい前の出来事を語り始めた。

彼は、小学校に奉職していたが、20年前に自宅で妻とともに地震にあった。妻が家の倒壊に巻き込まれ、救い出そうとしたが救い出せなかった。火事が近づき、彼は妻を瓦を打ち下して殴り殺し一人生き残った。人に妻を殺したのは自分だと言い出せないまま、次の結婚が決まった。すると彼は、妻を殺したのはやむにやまれないことだったのではなく、もとから殺したい気持ちがあったのでは、と思い始めた。肉体的欠陥を持つ妻を内心憎んでいたことに思い当たったからだ。その思いにどうしても抗えず、白状したい気になった。結婚式の日に、私は人殺しです、と叫び、狂人のレッテルを張られた。

 

相手を許容する、受け入れる、ことができずに起こった悲劇だと思います。妻の持つ、肉体的欠損により、どうしても中村玄道は妻を愛することができませんでした。(ネットでいくつか調べると、この肉体的欠陥は、性的欠陥=結婚時、既に妻が処女じゃなかった説が有力そうだが、僕もそうだと思います。男性が女性より性的経験に劣るためにコンプレックスを抱く(憎しみを抱く)ことは現代でも、特に童貞に、起こることで、自分の心の欠損を相手への憎しみに変換することは、時代を超えた普遍的なものだと思うからです。タイトルの疑惑も、「処女じゃない疑惑」にかかってると思う)

僕は、彼がここで、自分の妻を愛することができなかった(自分のコンプレックスと向き合おうとしなかった)ことが、自分の中の怪物を育てる結果につながったと思います。彼の言う「怪物」って、平たく言っちゃえば、自分じゃどうにもならないコンプレックスだと思うんですよ(嫉妬、罪悪、恐怖など)。そこを見据えようとしないから、どんどん肥大化していっちゃった、という物語だと思っています。

 

そして、そのコンプレックスを乗り越えるフィクションが生まれたのって、割と最近だと思っています、僕は。その一つが、日本テレビ「ゆとりですが、なにか」だと僕は思います。

www.ntv.co.jp

 

このドラマ、まあ、色々起こるんですけど、(今からこのドラマのネタバレします。ドラマだし、時効だからいいよね)

 

最終回で主人公とヒロインが結婚式を挙げるんですが、そのちょっと前に、ヒロインが主人公の上司に寝取られるんですね。

そのことを薄々感づいていた主人公は、結婚式の最中式を抜け出し上司に寝取られを確認したうえで、ヒロインと結婚することを選ぶんですよ。全部認めたうえで、彼女を受け入れる(=自分のコンプレックスを受け入れる)選択を選ぶんです。

フィクションって、現実の不条理さをできるだけ、生活する上で消化しやすいものにする機能を持つと思うんですが、そのフィクションでも、ここまで個人に強靭さを求めなきゃいけない時代になったんだな、と思いました。

逆に言うと、フィクションでこういう答えを提示しても、咀嚼できるほど、個人が成長した、という考え方もできるのですが。

なんというか、芥川龍之介に、現代では、こういう価値観で、あなたの疑惑に、応えてますよーと伝えたいです。

 

 

こっからは、おまけ

 

正直、この小説最初読んだとき、全然わからなかったんですよ。最初、「線香」とか「鴉」とか不穏な単語が並んだ後に、中村玄道が登場するので、これは中村玄道は死者だ、という解釈かなと思ったんです。ですけど、どうも死んだとも思えないので、ずっとなんでかなーと思ってて。

でも、これ、(あったかもしれない)自己との対話だったと考えると、大変しっくりきました。オカルトチックな描写は、「もう一人の自分」を演出してたんですよね。

この解釈を教えてくれたのが、この論文で、読むと解釈が広がり面白いと思います。よかったらぜひ→

ci.nii.ac.jp

 

ではー