ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

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芥川龍之介 「西郷隆盛」 歴史と論理は利用手段でいいと思う

こんにちは。マシマシでっす。

 

今回は、歴史について少し考えてみようと思います。

歴史ってどこまで正確か、わからないですよね。なぜかって?

今、僕らが信じている正しいとされる歴史は、その時代の人々が残した日記や記録から後世の学者たちが正しいと判断したもので作られています。

しかし…

過去の時代の人々の記録が間違っている可能性はけっこうあるのでは?(現代の記録粉飾なんかを考えれば、過去にだってそういうことはあったはず)

後世の学者の判断ってどこまで信用できるの?

と考えると、ほら、だんだん怪しくなってきた。

 

個人的に僕は、歴史は、今の時代を肯定するための記録として使っちゃっていいと思うんです。

これがどういうことか説明する為に、一人の人間の記憶のあり方について考えてみたいと思います。

例えば、僕ら人間は、自分の過去でさえ、正確に記録できていないことがしばしばあります。過去の出来事を友達と語り合ってたら、証言が食い違ってた、なんて笑い話もよく聞きますし。自分を肯定するため、自分の都合のいいように記憶を改竄してしまうことは、まあ、よくあると思うんですよ。

 

そして僕らは、その記憶の不確かさを利用して、今自分のやっていることは、過去のこんな経験からやりたいと思ったんだ、と自分を納得させて満足感を得ようとしています。僕は、これは間違っているとは全然思ってなくて。自分が満足できる、できるだけ心地よい状態でいられるのであれば、その現在を理屈づけるために記憶が活用できれば、それが記憶の存在意義になると思っています。自分のいいように記憶を編集しなおせるならそれは、全然ありというか。

 

だから、歴史も、今、僕らが信じる価値観や道徳を証明するための、一つの後付けの足跡にしか過ぎないと考えればいいと思っています。

 

「おれは歴史が嫌いだ。思い出が好きだ」は歌人、詩人、劇作家の寺山修司が残した言葉です。「今、ここ」を知るため、刻み込むために歴史は存在するが、それ以上の権威や価値は人の歩みを逆に縛ります。

自分が歩みたい方向、行きたい場所に向かって、自由に美しく歴史を解釈することは、人間に許された最大の自由で、それが小説、ドラマ、演劇などのフィクションなのだろうと思います。

 

そんなことを思った、芥川龍之介西郷隆盛」。