ナンパと評論をごった煮にすると謎肉になります

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円城塔「プロローグ」 創作に当たってのゴミに光を

 創作は、その活動の時点で多くの「ゴミ」が重なるものだと私は思う。私が昔行っていた演劇であれば、何度も稽古を繰り返し、台本が変わり、最終的にお客さんに発表された作品まで何度も案を作っては捨てを繰り返した。このブログであれば、何度も書いては修正を繰り返している。今だって、「くりかしえ」と打ち間違えて訂正を行った。

 このように、創作中は何度も訂正、改善のため多くの思考錯誤が積み上げられ、「誤」とみなされたものは容赦なく「ゴミ」と化していく。いやはや創作に限らない。日常の様々な活動において私たちは試行錯誤を繰り返し、膨大な「ゴミ」となった「未完成」の上に完成品ができる。

 

 僕は、この「未完成」が日の目を見ないことが、やるせない。そして、その「未完成」に光を当ててくれたのがこの作品だと思う。

 

「わたしにとって理想の書物の形はだから一言で「ソフトウェア」ということになる」この一文が私は大好きだ。

 「創作の流動化」これを円城さんはこの作品で目指していると感じる。通常の創作物は、小説、映画、絵画ーどれをとっても完成したものが私たちに届く。完成したものを咀嚼し、製作者の意図によりそった解釈を目指す。この作品がどんな変遷をたどり、現在の形になったかはあくまで想像するしかない。

 しかし、その創作中の紆余曲折が、作品そのものより遥かにダイナミズムを孕んでいることが時々ある。新たに世界観が組み込まれていく感動。昨日まで確かにあった設定が突然消え去る暴力性。更新される世界の中で上塗りされる意味。こういったものが可視化される、「創作それ自体を描いた創作物」がこの作品だと、私は思う(と、ここまで偉そうに書きながら、私はまだ3分の1しか読んでいない…)。

 冒頭の「ソフトウェア」こそが、常に創作の渦中にある創作物なのだ。「ソフトウェア」は、完成しない。作り上げられたシステムの上からまた更にシステムを付与し、よりよいシステムに作り替えていく。そのダイナミックさに理想の書物を見た、円城さんの感性に平伏である…。

 

 また、「ソフトウェアが理想の書物」は、まさに未来を表しているかもしれない。演劇界の、戯曲と演劇構造をいかに分けるか、という問題が、この「ソフトウェア→未来の書物」についてヒントをくれているように思う。

 2012年岸田國士戯曲賞岸田國士戯曲賞とは、演劇界の芥川賞と思っていただければよい)を受賞した、藤田貴大「かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界」という作品がある。この作品は、「リフ」という、劇中で同じシーンを何度も繰り返し、役者のテンションをシーンごとに上昇させていく手法が評価された。

 しかし、「手法」への評価は戯曲ではなく、演出への評価とみなす選者も多く、そういった方々からはこの戯曲は支持されなかった。私はこの「リフ」という手法こそが、この作品の構造を作っている、つまりソフトウェアに当たると考えている。手法、構造が作品の重要な要素とみなされ、権威づけされていくのではないか、と、この「リフ」への評価と、「プロローグ」を読んでいると、思えてくる。